人間と道具(奏者?Mp?Tp?)  #13199
投稿者: Bフラット (2001/07/19 18:01)

人類の二足歩行の歴史は400万年(アウストラロピテクス・アナメンシス)と長〜い。そのほとんどが石器時代で銅鐸など金属加工を含めた有史は紀元前を含めて3000年程度だろうか?現在は2001年だから、長〜い人類史の中、過去、数百年の道具の進歩は驚異ともいえる格段にめざましいものがある。「石器」という道具から今では一家に一台というべき「パソコン」という人類が到達した最高の道具の歴史的経過の背後には社会的「人間」が存在していた。つまり、人間あっての道具だったのである。
トランペットという音楽を奏でる道具はどうでしょうか。最高級のTpが店頭に並んでいてもそれを奏でる人間がいなければ音楽的には何の意味もない。Mpについても同じである。MpもTpも奏者の手になってはじめて音楽となるのである。Tp音楽を演奏したり論じたりする時には人間(ソリストや指揮者、楽団という人間集団)が前提条件である。パソコン音楽にしろ背後には必ず制作している人間がいる。それでは、Tp奏法論を論じる場合はどうでしょうか。奏者の吹き方よりもMpが第一か?MpやTpという道具が奏者より重要で、奏者がそれらに合わせたり従うべきということになったら道具の進歩はありえないことになり、今日のIT社会も存在しないことになる。しかし、歴史の真実は人間あっての道具ということではないだろうか。すべての道具は最高の奏者や職人によってはじめて本来の性能が発揮され、かつ、研究開発されていくものであると思う。MpもTpも奏者なくしては本来の性能や価値も発揮できない値札の取れないただの金属加工品であり、もとより音楽とは遠い存在であると思う。また最高品質のMpやTpがあれば誰でも良い音楽を生み出すとはいえない。最高の奏者の手になってはじめて可能となるのではないだろうか。初心者が一流の奏者のMpとTpを使ったとしても同じように演奏できないことは自明の理といえる。Tp奏法論での道具の果す役割は奏者から最高に気に入ってもらえるかどうかである。気に入ってもらえなければすぐにでも別の道具にとって変わられる。道具自身は奏者に気に入ってもらえるようなゴマスリも小細工も何もできない臆病者で正直者?なのだ。だから奏者は新たな道具に関わる前に自分自信の奏法を振り返って、おおいに自己批判?をしてからでも決して遅くはないと思います。Tp奏法論のそもそもの主題は奏者の音楽的感性のすべてが問われているものであって、どのような論法を持っても道具に置換できないのだと思うのです。

http://www.h3.dion.ne.jp/~b-flat/